2025年6月27日(金) 20:51
戦後80年特集「シベリア抑留 ~終戦は来なかった~」
京都府舞鶴市にある舞鶴引揚記念館。終戦後に日本の軍人らがシベリアなどに強制連行され、厳しい寒さと飢えの中で、労働を強いられた歴史を伝えています。
国の推計では、抑留されたのは約57万5000人、日本に帰ってくることができたのは約47万3000人でした。国や県の把握によると、シベリアや樺太などの地域で、少なくとも362人の滋賀県出身者が死亡したということです。
◆教師に勧められて旧満州へ
2000か所以上あったという強制収容所の一つシベリアのイズベストコーワヤで抑留されていた大津市に住む小門(旧姓・田中)義男さん(99)。
15歳になる年に、昭和15年度、1940年度の「満蒙開拓青少年義勇軍」に参加しました。当時、国策として少年らを中国東北部・旧満州に送り込み、開墾作業や軍事訓練に従事させました。
小門さんは、「学校の先生から勧められた。そういうのを勧められる時代だった。軍とつくと軍人になるから隊に変わって、満蒙開拓青少年義勇隊。それまでは満蒙開拓青少年義勇軍だった。いわゆる『関東軍の予備軍』。表向きは農業が主体だけど半分は軍事訓練で、軍隊と同じことやった。迫撃砲までは訓練していた。ほとんどの者が軍国主義の教育を受けて、頭にそれに対する疑惑が全然なかった」と振り返ります。
◆2か月後に終戦 シベリアへ
小門さんによりますと、終戦の約2か月前に現役召集されて陸軍に入り、8月に旧満州の主要都市ハルビンへ移動しました。「皆それぞれに弾を持てるだけ持たせ、私も弾帯をたくさんタスキ掛けに持って、ハルビンを死守するために送られた」。
陣地の構築などを行いましたが、1週間ほどで終戦を迎えました。数日後にはソ連兵が来て武装解除させられたと言います。
「軍と行動を共にするなら生命は保障するけど、軍を離れようと思う者は生命の保障はしないというので、軍隊と一緒にいないと、いつ死ぬか分からないので、そのまま軍と行動を共にして捕虜になった」と当時の状況を語りました。
その後、別の集結地などを経て、11月頃に「帰国できる」ということで列車に乗せられました。しかし、違和感が確信に変わったのは、数日後でした。
「汽車の走っている向きが、朝に太陽が出ると西と東が全然最初に思っているのと違う。もう3日目ぐらいから、もうあかんなと思った」。
◆極寒での労働と飢え 忘れえぬ記憶
小門さんが連行されたのはイズベストコーワヤ。マイナス40度にもなる厳しい寒さと飢えの中で、伐採や鉄道敷設の強制労働に従事させられました。課せられた業務は、ほかにもありました。小門さんは、その時の光景は今も、忘れられないと明かしました。
「来いと呼ばれて風呂場へ行った。前の晩に亡くなったら、みんな風呂場へ運ばれる。風呂場は冷房もペーチカ(暖房)もない所だから、一晩か二晩置いておくと凍って扱えるようになる。死体を、どこかに持っていくのだと思ったら、そりに乗せて病院から600㍍ぐらい離れた建物へ引っ張っていった。開けると、たくさん死骸があった。そこへ置けと言われ、置くとガチャンと音がした。『ろう人形』のようになっていた。冬の間は土が凍って埋葬できない。小屋で凍っていたら腐らないから、そこが死骸置き場になっていた。入った時には何とも言えなかったが、死人をかわいそうにと思う今のような感情がわかなかった。自分も死んだらそうなる。これ運べと言われて品物を運んだような記憶だ。でも今、正常に戻ると、あの時そりを引っ張っていったことを何十年たっているけど思い出す」。
また、強制労働ではノルマを課せられ、未達成なら食事を減らされました。生きること、その日食べることに必死だったと話します。
「カエルは目の敵にして獲って、焼くも炊くもせずに食べた。日本の兵隊が来てからカエルがいなくなったと言われるくらい。松の皮を取ると木との間が、スルメと一緒。飯盒でクツクツ炊くと、味はないが腹が膨れる。松の皮は、よく食べた」。
◆大正~昭和~平成~令和を生きて
小門さんが帰国できたのは昭和22年、1947年7月のことでした。やせ細った姿は、迎えに来た家族が、すぐに本人と分からないほどでした。生還できた理由について、発熱で入院し、最初の冬を病院で過ごせたことが大きいと振り返ります。
「その年には、相当たくさん亡くなったと思う。入院したために、最初の冬は栄養失調にならず、何とか病院では食べることができた。それで命が助かった」。
小門さんは、これからの世代に向けて次のように語りました。
「時代に対する疑心暗鬼がなかった。こうして兵隊になって国にために尽くすのが当然とされた。自分を卑下するわけじゃないけど、そういう教育をまともに受け、まともにして、それ一点張りで過ごしてきた人間はあかん。二度と、二度と、こういう時代になってもらったらあかん。自分たちの歩んできた時代にはならないように。視野を広く持って、いろんな事に疑いも持ちながら、やっていかないと、そういう人間にならないと」。
◆抑留者の帰還を待つ家族
一方で、帰還を信じて子どもを待つ母親や、夫を待つ妻ら家族の姿もありました。この「岸壁の妻」として、幼い子どもたちと夫の帰還を祈ってたたずむのは、小谷ちゑさん。
滋賀県に住んでいた女性です。
シベリアに抑留された夫の小谷嘉七さんが、無事に帰ってくることを期待して、子どもと共に舞鶴港に向かいました。当時の心境をつづった手記が残されています。
「主人は消息不明、精神的、肉体的にも疲労極限になったのか、とうとう声が二年余りも出なくなってしまいました」
亡くなったと聞いた後も人違いであってほしいと舞鶴港へ通ったことが記されていました。
写真にうつる嘉一郎さんが記した文には、父への想いがあふれています。
「だいすきなおとうちゃん、ぼくはまいにちおふねがつくのをおかあちゃんとまっております」「ぼくだけおとうちゃんがかへってこないので、たいへんさびしいです」
嘉七さんは1948年9月に死亡したことが確認され、家族は再会できませんでした。ちゑさんは1994年11月に77歳で亡くなりました。
◆祖父の生きた証を求めて
孫にあたる小谷典生さんは、ちゑさんから直接、シベリア抑留のことを聞くことはありませんでした。
「帰りの方が体も気持ちも重かったと思うので、そういう思いを何度も何度も舞鶴に向かってしていたというのは‥-。子ども2人抱えながら、どうやって生きていこうと考えると思う。もっと生きているうちに、いろいろ聞いておけばよかったなという思いがある。僕も小さかったけれど」。
シベリア抑留が教科書の中の話でなくなったのは、20代後半の頃に父から聞いた一言がきっかけでした。
小谷さんは「(父が)舞鶴に行きたいと言い出して、なぜ?という話になった。自分の写真が飾ってあって見に行きたいと。理由を父から聞いて、自分がこの話を知ることになった。自分のおじいちゃんは、どんな人だったのか、どんなことをしていたのか、どんな思いだったのか、知りたくなった」と話しました。
◆旧ソ連文書で触れた祖父の面影
それからインターネットで調べたり、資料の開示を請求したりして、祖父・嘉七さんの面影を追い始めました。国を通じて入手した抑留当時の旧ソ連の文書には、軍歴や病気治療の内容をはじめ、死亡日時などが細かく記されていました。
小谷さんは、その一枚に書かれていた文字に目を奪われました。
「ここに、おそらくおじいちゃん直筆のサインだと思う。生きていた証。こんな字を書いていたんだと思う。生きていたおじいちゃんに触れている気がする」。
小谷さんは、嘉七さんの生きた証を今も探し続けています。
「生きてたんだと、やっと自分の中で解釈できた。それまで遺影の中の軍服着たこわそうな人というイメージだった。笑顔の写真もあって。温かい気持ちになって次々と資料を集めたくなった」。
◆命のつながり 伝える
戦後80年と言われることについて、小谷さんは次のように力を込めました。
「いろいろと資料がどんどん出てきて、やっぱり終わったと、戦後だという感覚がしない。まだまだ新しい資料が出てきたら、そこから新しいおじいちゃん像がスタートする感覚。生きてきた足跡をたどったことで、自分の中で命がつながっているという感覚がある。同じような感覚を子どもたちも持ってほしい。やっぱり歴史の教科書で出てくること以外の、もっと身近にあること。誰にでもおじいちゃんはいて先祖がいる。身近な先祖を掘り下げていくことが、やっぱり大事なことだと思う。家族の中の歴史でいいと思う。それが伝えていくということじゃないかと思う」。
(報道部 福本雅俊)