戦後80年特集「空襲に奪われた命」
2025年7月30日(水) 19:51


遺族や県平和祈念館の話によりますと、兄弟2人は近くの広場へラジオ体操に行き、空襲警報が鳴って家路を急ぎ戻っていました。山田さんは次のように話しました。

「空襲警報が鳴ったので、2人が帰ってきて、親父はここで(縁側で)座っていたみたい。母親が玄関で、早く帰っておいでと下の子に言って、上の子は早いので、怖いので部屋に入って布団に潜って怖いと言って。(飛行機が)上から下がってきて裏からずっと鉄砲で撃って、上の子はまだ息があったが、下の子は玄関で即死。それを母親が抱いていたみたい。誰かを呼んできて(息のあった久司さんを)戸板にのせて病院に運んでいった。その間も上から撃ってくるので、隠れながら行ったので、あかんかったと聞いた」。
翌日7月31日に葬儀が営まれました。その時の久司君の同級生が読んだ弔辞が残っています。

「…僕たちはどんなに悲しいか知れないよ…」
「米英の憎い仇は、どんなことをしてもとって見せる…」
純粋で、悲しい憎しみの連鎖に子どもたちが否応なく巻き込まれていきます。

当時同級生で、葬儀にも出席したという久田政男さん(89)。久田さんは当日、機銃掃射の音が聞こえたと話します。
久田さんは「それはすごい音だったバリバリという音は。もうあの音だけは今でも忘れんわ。ここらでもすごかった」と話しました。
同級生だった久司君は足が速く、陸上のライバルだったと振り返ります。
「久司君とは競争相手でもあるし、何としても負けられんというような気持ちが子ども心にあった。僕より大きいし、足腰、足でも強いし、心臓も強かったと思う。長距離はやっぱり、よう走ったわ。(葬儀の弔辞で)なんとしても青年になったら航空兵になって、やっつけてやるという気持ちの言葉は忘れんな」。
県平和祈念館の田井中洋介副主幹は「この表は滋賀県に空襲が来た記録として確認できた資料の一覧です。7月下旬に相次いで滋賀県に空襲がありました。東近江市の石谷で子ども2人が亡くなったというのは7月30日のことです」と話し、「アメリカの空母ベローウッドから飛び立ったヘルキャットという艦載機が滋賀県の上空にやって来て、八日市飛行場南東にあった工場を攻撃したと記録があり、その攻撃の中で巻き添えになったとみられます」と説明しました。
1945年7月には、西日本各地をはじめ、県内へも米軍機による空襲がありました。航空機に搭載されている機銃は、船舶や列車、車両などを破壊する威力がありました。そんな恐ろしい銃弾が幼い兄弟を襲ったのです。

これは米海軍の空母「ベローウッド」の戦闘報告書です。7月30日、艦載機による攻撃について記載があります。しかし、この幼い兄弟の死と、目前で我が子を失った親の悲しみは、どこにも記されていません。
弟の山田さんは戦後生まれで、物心つくまで兄2人の存在を知りませんでした。
「親は話さなかった。やっぱり思い出すのがつらかったからだと思う。聞いても、これは何やと言うと、それの答えが出るだけで、こうやったこうやったと言うことはあまり聞いたことない」。

しかし、山田さんは、言葉にならない深い悲しみを抱えた両親のことが、胸に残っていると言います。「雨が降って(機銃掃射で穴があいた所から)雨漏りがしても、何もせずにぼーっとそこに座っていた。雨が降っても何もせずに濡れっぱなしでずっといたと。(父親は)テレビで戦争のことが流れると泣いていた」。
山田さんは、銃撃のすさまじさを物語る穴のあいた鴨居や削れた柱をよく覚えていると話します。家は改築して、今は空襲の痕跡は残っていませんが、久司君が撃たれた部屋の位置は、変わっていないということです。
「この部屋は傷だらけだった、それは覚えている。裏から向こうから来て撃って、ここで寝てたから、ここで。この部屋。家は建て替えたが場所は一緒、ここ」。
近くには当時の機銃掃射の痕跡が残る壁があるということです。

空襲で奪われた幼い兄弟の命。終戦まで、あと2週間でした。山田さんは無念さをにじませます。
「あと2週間早く戦争が終わっていたら大丈夫やったんやな。15日だから終戦が。あと2週間。それは親父が言っていた。あと2週間早く終わっていたら大丈夫だった」。
同級生の久司君を空襲で失った久田さんは、その数か月後に父親も亡くしました。戦争から帰還したものの、配属された沖縄・宮古島で激しい空襲にさらされた影響で心身が壊され、自ら命を絶ったと話します。同級生と父親を奪った戦争。久田さんは次のように力を込めました。


「年と共に、余計に忘れられなくなってくる。無差別で機銃掃射しているのと一緒。もう人間と思っていないのではないか。戦争そのものが、もう人間を変えてしまうのではないか。ウクライナへの侵略侵攻が始まって、それを見ると、やっぱり日本の80年前の戦争の罪悪や苦しみが、本当に戦地の苦しみがよく分かる。一番苦労するのは大人ではなく、子どもや女性、戦争があれば。それは同じこと。今から80年前の僕らがいろんなことやっていたことと戦地でやっていることは同じようなことだ」。

これは戦争末期、大津市の瀬田国民学校の子どもたちが描いた絵日記です。そこには空襲の不安にさらされる日常がまざまざと描かれています。県平和祈念館の把握によりますと、県内の空襲で少なくとも50人以上が亡くなり、180人以上が負傷しました。死亡した子どもは、この幼い兄弟だけではありません。80年前に終戦を迎えた戦争も、そして今ある戦争も、敵味方に関係なく、何の罪もない子どもが殺されるのが戦争です。
(報道部 福本雅俊)